Masuk鷹宮財閥の当主交代パーティーで起きた騒ぎは、その日のうちに政財界へと広まっていた。会場に居合わせながら騒動に気づかなかった者たちも、パーティーが終わる頃には、その詳細を耳にすることになった。何しろ、鷹宮財閥の当主交代という一大行事である。政財界の有力者たちが一堂に会するこのパーティーには、業界でも名の知られた記者たちも招かれていた。会場の入り口を通った者なら、誰もが気づいていたはずだ。正面玄関付近には、招待客を出迎えるスタッフに交じり、政財界御用達の記者やカメラマンたちの姿があった。もちろん、彼らも最初からゴシップ記事を書くために来たわけではない。今日の主役は、長年にわたり鷹宮財閥を率いてきた鷹宮正隆と、新たに当主の座を引き継ぐ鷹宮和真だ。財界の勢力図にも影響を及ぼす可能性のある世代交代。その背景や、今後の鷹宮財閥の経営方針について、どのような発言が飛び出すのか。記者たちは、それぞれの取材目的を胸に会場へ入っていた。ところが―――。パーティーが始まり、和真が正式に当主就任を発表したあと、会場の一角で思いがけない騒ぎが起こった。最初に異変に気づいたのは、会場内を見渡していたカメラマンだった。「……おい、あそこ。神崎社長じゃないか?」カメラマンは、グラスを手にしたまま、会場前方の中央付近へ視線を向けた。神崎壮真が、何やら険しい顔で和真に詰め寄っている。その周囲には、鷹宮家や九条家の人々、そして壮真の元妻である神崎美玲の姿もあった。「何か揉めてるのか?」隣にいた記者も、すぐにそちらへ目を向けた。最初は、親族間のちょっとした意見の食い違いだと思った。だが、壮真の表情は明らかに険しく、和真も一歩も引いていない。周囲の招待客たちも談笑をやめ、二人の様子を窺っている。これは、ただ事ではない。記者の胸の内で、取材者としての勘が働いた。「ちょっと待て……。鷹宮、神崎、それに九条までいるぞ」記者は、会場の奥に立つ九条玲司の姿を確認した。財界でも別格の存在感を持つ玲司が、わざわざ騒ぎの場に姿を現している。つまり、単なる兄弟喧嘩では済まない何かが起きている可能性があった。「おい、カメラ。撮れるか?」「もちろんだ」カメラマンは、すでにカメラを構えていた。普段なら、こうした公式行事で無闇にシャッターを切ることはしない。主催者側との関係も
「兄さん、ここでの騒ぎは困ります。一旦、落ち着いてもらって、今日のところはお引き取りください」和真の言葉は、決して大きな声ではなかった。しかし、その声音には、鷹宮財閥の次期当主としての揺るぎない意志が込められていた。兄を気遣うような遠慮も、機嫌を損ねまいとする配慮もない。今の和真にとって、目の前で騒ぎを起こしている壮真は、たとえ実の兄であっても、特別扱いする相手ではなかった。その態度が、壮真の神経を逆撫でした。「これが落ち着いて話せることだと思っているのか!?」壮真はカッとして顔を上げた。胸の内には、抑えきれない怒りが渦巻いていた。実の弟の当主就任パーティーだというのに、周囲の招待客からは、好奇心に満ちた視線を向けられ、つい先ほどは、離婚したばかりの美玲から公然と恥をかかされた。しかも、彼女が養子に迎えた少年は、よりにもよって自分の息子である康太だった。それだけではない。和真は、その康太を神崎家の後継者として紹介したのだ。自分が何年も認知せずにいたことなど、棚に上げているとわかっていても、壮真には到底受け入れられなかった。自分の知らないところで、神崎家の未来が勝手に決められていく。長男である自分を差し置いて、弟と元妻が手を組み、息子まで自分の手の届かない場所へ連れていこうとしている。――ふざけるな。そんなことが許されてたまるものか。「実の弟の就任パーティーで末席に案内され、離婚したばかりの妻が養子を迎え、それが神崎財閥の後継者だと言われたんだぞ!!俺の立場って物があるだろう!!お前はそれをわかって言っているのか!?」壮真は和真に掴みかかって行った。周囲から、小さなどよめきが起こる。招待客たちは、まさか本当に手を出すとは思っていなかったのだろう。先ほどまで面白がっていた者たちも、さすがに表情を強張らせた。だが、和真は一歩も引かなかった。壮真に襟元を掴まれても、怯むことなく、まっすぐ兄の目を見返している。「兄さんが今までしてきたことの、報いかもしれないですね」その一言が、壮真の理性を吹き飛ばした。「何だと!!?」まさか、実の弟にここまで言われるとは思っていなかった。今まで和真は、自分に逆らうことなどほとんどなかった。神崎家の中では兄である自分の立場を尊重し、父・正蔵の前でも一歩引いていたはずだ。それなのに、今の和
「いつまで私の腕を握っているつもり?」冷ややかな声が、壮真の耳に突き刺さった。その声に、壮真はハッとして自分の手を見た。美玲の腕を、まだ強く握りしめていた。雪乃と康太が、まさかこの場にいるとは思わなかった。ましてや、あの少年が自分の息子でありながら、今では美玲の養子として、神崎家の後継者に迎えられようとしているなど、想像すらしていなかったのだ。頭の中は、怒りと混乱でぐちゃぐちゃだった。なぜだ。なぜ、こんなことになっている?自分の知らないところで、いったい誰が何を決めたというのだ。康太は自分の息子のはずだった。血のつながりがあることは間違いない。それなのに、なぜ自分ではなく、美玲があの子を神崎家に迎えることになっているのか。しかも、和真の口からは、康太を神崎家の後継者にするとまで発表された。壮真の胸の奥で、煮えたぎるような憤りが膨れ上がった。自分を差し置いて、勝手なことを――。だが、そんな怒りをぶつけるべき相手が誰なのかさえ、今の壮真には整理できていなかった。美玲は壮真の手を払うように腕を振ると、まるで汚らしいものでも触れたかのように、ハンカチを取り出して腕を擦った。その仕草は、あまりにも露骨だった。「育ちの悪い女を散々触った汚い手で、私を触らないでくれるかしら」吐き捨てるような言葉に、壮真の顔が一瞬で険しくなる。玲子のことを言っているのだ。しかも、美玲はわざと周囲にも聞こえるような声で言った。言葉の端々に込められた侮蔑は、壮真だけでなく、彼の背後にいる玲子にまで向けられていた。壮真は反射的に振り返りかけた。玲子がどんな顔をしているのか、確かめたかったのかもしれない。あるいは、自分たちを嘲るような視線を向けてくる者たちから、彼女を庇おうとしたのかもしれない。しかし、その前に美玲は踵を返し、自分の席へ戻ろうとした。まるで、壮真など相手にする価値もないと言わんばかりだった。「待て!」壮真は再び美玲の腕を掴んだ。「美玲、このことをちゃんと説明しろ!!」怒鳴り声が会場に響き渡った。その瞬間、近くで談笑していた招待客たちの声が、ぴたりと止まった。グラスを口元に運んでいた者も、隣人と笑い合っていた者も、いっせいに二人へ視線を向ける。何が起きたのか。なぜ、神崎グローバルトレーディングの社長が、離婚したばかりの元妻に人目
乾杯の音頭が取られ、司会者の「……ご歓談ください」という言葉が会場に響くまで、壮真は立ち尽くしたままステージを見つめていた。周囲では、次々とグラスが掲げられる。「おめでとうございます」「鷹宮財閥のさらなる発展を――」そんな祝いの言葉が飛び交い、華やかな音楽が流れ始める。だが、壮真の耳には、そのすべてが遠かった。壇上から降りた康太。そして、その康太の手を引いていた美玲。――神崎家の後継者。和真がそう紹介した言葉が、頭の中を何度も駆け巡っている。「神崎康太です」その名前が、胸の奥に突き刺さったまま抜けない。ハッと我にかえると、周りは皆グラスを持ち、立ち上がって談笑していた。壮真は、自分だけが取り残されていたことに気づく。「……康太……」無意識に、その名前を呟いた。だが、すぐに唇を噛みしめる。違う。何かがおかしい。なぜ美玲が康太を養子にする?なぜ和真が、あの少年をここまで大々的に紹介する?そして――。あの少年の隣には、誰がいる?壮真はその場から一目散にステージの真下あたりのテーブルへ向かって大股で歩き出した。胸の奥が騒いでいた。確かめなければならない。自分の目で。玲子が何かを言ったような気がしたが、壮真には聞こえていなかった。玲子は壮真がステージの方へ歩いて行くのを見ると、自分の壮真の後を追って足早に歩き出した。「壮真さん……!」玲子の声にも、壮真は振り返らない。ただ、前だけを見ていた。ステージの下の真ん中のテーブルには、鷹宮家、九条家、そして神崎美玲と康太が座って笑い合っている。そこだけが、まるで別世界のように穏やかな空気に包まれていた。和真は周囲の客と談笑し、心春も笑っている。叶翔と櫻羅も穏やかな表情を浮かべていた。そして――。その中心に康太がいる。壮真が息を切らして駆け寄ると、叶翔が立ち上がって壮真の前に立ちふさがった。「壮真さん!!」しかし、壮真は叶翔の姿が目に入っておらず、美玲と並んで座っている小さな少年だけを見ていた。康太。間違いない。あの顔。あの目。何度も写真で見たことがある。自分が直接会おうとしなかった少年。自分の血を引いている可能性がありながら、認めることから逃げ続けてきた少年。今、その少年が自分のすぐ目の前にいる。しかも――。自分の家の人間たちに囲まれ
「本日の特別ゲストをご紹介いたします」和真の声が会場に響き渡った。その瞬間、会場にいたすべての人間の視線が、一斉に少年へと集まった。壇上の中央。そこに立つ小さな少年―――康太は、何十人、何百人もの視線を一身に浴びることになった。大人たちの視線。財界の重鎮たちの視線。そして、今まで自分が見たこともないような豪華な会場。康太には、そのすべてがあまりにも大きく感じられた。緊張で喉が乾く。心春に握られていた小さな手にも、自然と力が入った。――怖い。そう思ったのかもしれない。康太が一歩後ろへ下がろうとした。すると、すかさず美玲が少年の後ろへ歩み寄った。美玲は何も言わなかった。ただ、康太の小さな背中にそっと寄り添うように立つと、心春の手から少年の小さな手を受け取った。その手を、しっかりと握る。康太が美玲を見上げる。美玲はそんな康太に、ほんのわずかに微笑んだ。大丈夫。そう言っているような目だった。心春も美玲に康太を預けると、静かに和真の横へ移動した。和真が会場の方へ体を向ける。壇上に立つ和真の表情は、先ほどまでと変わらず穏やかだった。けれど、その立ち姿には、先ほどの挨拶以上の威厳があった。これから紹介するのは、ただの子供ではない。自分と血のつながった、大切な存在。そして――。これから神崎家という一族の未来に関わっていく少年なのだ。和真は一度、会場をゆっくりと見渡した。視線を急がせることなく、一人ひとりに語りかけるように。その姿には、鷹宮財閥の新たな当主としての自覚がにじんでいた。そして、静かに話し出した。「みなさま、この少年は、ボクの血縁の者になります。今まで、ボクらにもその存在を知らされず、最近になって初めて血縁だと知った次第です。この少年を神崎家に迎えるにあたり、ボクにとっては義姉にあたる、この「神崎美玲氏」が、養子として迎えることとなりました」その言葉を聞いた瞬間、会場の空気が変わった。「血縁の者」。その言葉だけでも十分に意味がある。だが、和真はそこで言葉を止めなかった。誰にも曖昧な形で受け取らせるつもりなどない。康太が誰なのか。なぜここにいるのか。そして、これからどの家に迎えられるのか。それを、財界の人々が見守るこの場で、正式に示したのだ。美玲と少年が一歩前に出る。美玲は康太の手を
会場の最後列では、面白くなさそうな顔をした玲子が座っていた。華やかな照明が降り注ぐ壇上とは対照的に、そこは少し暗い。周囲では財界人たちが静かに談笑しているものの、玲子の耳にはほとんど入ってこなかった。遠く離れた舞台上を、睨みつけるような鋭い眼差しで見ていた。―――何なの、いったい!!玲子の中では、鷹宮の当主を引き継いだ、和真の実の兄の婚約者だと自負する自分が、こんな扱いを受けていることが許せなかった。本来ならば、自分はもっと前の席にいて当然だと思っていた。壮真の隣に堂々と立ち、財界の人々から「神崎家の次期当主夫人」として扱われる。それが玲子の思い描いていた未来だった。壮真がやっと美玲と離婚し、雪乃と康太を和真に押し付け、神崎の次期当主の妻になる存在だと思い込んでいた玲子にとって、先ほどの綾乃の「秘書の方は最後列へ………」あの言葉が頭から離れなかった。あのときの綾乃の笑顔。声を荒げることもなく、嫌味を言うわけでもない。ただ淡々と、自分を最後列へ案内した。それが玲子には何より屈辱だった。「何なの、あの女!!」小さく吐き捨てる。ステージの下の明るい照明が当たるテーブルが見えた。先ほど自分を侮辱した綾乃が、一番真ん中で華やいだ笑顔で壇上を見ている。玲子は悔しくて仕方なかった。――どうして、あの女があんなところにいるの?――どうして私は、ここなの?掌を握りしめる。爪が食い込むほど強く握っても、この悔しさは消えなかった。玲子は綾乃の姿を睨みつけたまま、微動だにできないでいる。自分がどれだけ惨めな場所に置かれているのか。それを周囲に悟られたくない。だからこそ、玲子は必死に表情を取り繕っていた。するとステージ上では和真が、妻である心春の紹介を終えた後ステージを降りずに、他にもゲストを紹介したいと言い出していた。それを聞いた玲子は、和真が兄の壮真を紹介するのだろうと思い、少し表情を和らげた。―――そうよね、だって和真は、もともとは神崎の人間なんだもの。実の兄である壮真を無視するはずがない。そう思えば、少しだけ気持ちが落ち着いた。もしかしたら、このあと壮真が壇上に呼ばれるのかもしれない。そして、自分もその隣に立つことになる。そんな期待が、玲子の胸に再び芽生えた。だが――。ステージ上では、和真が心春を促し、舞台袖へ